「作家こそスターであり、監督であり、スタジオのトップなのだ」  ―マリオ・プーゾに死美れる(原作者のプライド編)―

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『ゴッドファーザー』公開前後、原作者のマリオ・プーゾがどのような気持ちでいたのかを追っていきます。


まずプーゾの言葉を紹介し、その後に本文を続けています。


第一作目公開当時に出版されたプーゾの手記『The Making of the Godfather』をおもに利用しました。









【その1】

「大半の映画は質が悪い。


最終決定権をもつ者がストーリーやキャラクターのことをまるで知らないから質が悪いのだ。


ハリウッドはまだわかっていない。


書き手を、プロデューサーや監督や(あえて言えば)スタジオのトップと同等の地位に昇格させるのが絶対に確実な手であることを」




【その2】

「作家こそスターであり、監督であり、スタジオのトップなのだ。


これはけっして私の映画ではないが、どこまでも私の小説なのだ。


すべて私のものだ」









《本文》


マリオ・プーゾは悔しかった。


原作者であり脚本も担当していながら、本人が言うところの「8番バッター」だったからだ。


上位にはパラマウントの社長、重役、プロデューサー、監督、あるいはパラマウントの親会社ガルフ&ウェスタンのトップなどがひしめいていた。


本人による『ゴッドファーザー』のメイキング本には、「これは私の映画ではない。彼らの映画なのだ」と何度も書かれている。


ハリウッドへ行く際、その映画は自分のものではない事実をちゃんと受け入れていた。


もしも自分が映画の製作を仕切っていたら失敗しただろうこともわかっていた。


監督であろうと演技であろうと、どれも才能と経験を必要とする彼らならではのものだ。



だが、原作者としてのプライドがある。


ファイナルカットのチェックくらいはさせてほしかった。


それなのに見せてもらえなかったのだ。


それがメイキング本で本心をぶちまけることにした理由である。


ことさらスタジオ側の悪口は書かれておらず、いっしょに働いた映画人たちをむしろ称賛している。


それでも最後でつまはじきにされた悔しさは捨てきれなかったのだろう。



スタジオが決めた結末に自分が反対していたせいかもしれないと本人は言う。


マイケルの魂を救おうとケイが教会でろうそくに火をともす30秒間をプーゾは加えたかったのだ(パート1と2を年代順に再編集した特別完全版にはある)。


原作本のラストシーンもそうだったせいか、当初はプーゾだけの主張であった。



とはいえハリウッドでの仕事は本人にとって楽しいものだった。


小説と比べ脚本はそれほどたいへんでもなかった。



一方、監督のフランシス・フォード・コッポラは脚本がまずいとすべてがダメになると考えており、執筆には常に恐怖を抱くという。


プーゾとともに脚本を担当したそのコッポラもこう語る(『ザ・ゴッドファーザー』ソニー・マガジンズ刊より)――


「映画が観客に与える効果の80%は、脚本家によって予想され、あらかじめ計算されたものなんだ。つまり、脚本家が金を生み出してるというのに、どんな映画であれ内容には口を挟むことは許されないんだ。よほどの大先生でもないかぎりはね」



コッポラは、『ゴッドファーザー』はマリオ・プーゾの素晴らしい想像力と文章力による創作物であることを忘れてはいけないと、今でも感謝している。





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